□ 展覧会テキスト−尾崎信一郎(京都国立近代美術館主任研究官)
オブジェとしての陶の発見は陶芸の地平を開いた。用から離れることに
よって陶は自立した単位としての可能性を手にしたのである。しかし陶
という素材は、作品に一つの限界を課したのではなかろうか。この点は
デュシャンのレディメイドのオブジェと比べると理解しやすい。対象や
客体をその語源とするオブジェとは、本来作者からいわば突き放された
存在として成立していた。これに対して作家の手の跡を濃厚に刻んだオ
ブジェとしての陶は触覚的であり、作家の手に対してあまりにも親密で
あったのだ。置かれた空間の中で作品が一種の求心性、凝縮性を帯びて
いる点はこの点と関係している。
清水六兵衞の作品を前にして感じる一種の違和感はこのような前提への
違和であろう。清水の作品の幾何学的で単純な形態、抑制された素材感
は我々がなじんだオブジェとしての陶とは異なった作品の在り方を示し
ている。作家と作品との間には一定の距離が保たれており、ともすれば
フェティッシュとしての性格を帯びやすい陶に一種の明晰さを与えてい
る。そこには建築学科出身という異色の経歴がいくぶんか影響している
かもしれない。実際、焼成の際に介入する偶然を容認しつつも、図面を
引き、模型をこしらえながら制作を進める清水にとって、作陶とは土を
手探るというより、むしろ理知的で構築的な作業としてとらえられてい
るだろう。
幾何学的な形態、図面に基づいた制作といった点で、清水の作品がミニ
マル・アートを連想させる点は決して偶然ではない。例えば、今回出品
される円形の作品はロバート・モリスの作品との類比を許す。ミニマル
・アートとの親近性は作家の空間に対する意識を反映しているだろう。
先に従来のオブジェとしての陶が求心的、凝縮的であったと述べた。こ
れに対して清水の作品は遠心的、拡散的といえよう。つまりそこでは空
間の中に一点の作品を置くのではなく、いわば作品と空間の対話が試み
られているように思うのだ。そしてなじみやすい等身大のスケールは見
る者をかかる会話の場に誘うかのようである。われわれは作品と同じ空
間の一角を占め、手と触覚によらず、視覚と空間を介して清水の作品に
触れる。ここでは現代美術にも通じる作品の新しい在り方が問われてい
る。それはオブジェとしての新しい可能性ではないだろうか。 |