□ 展覧会テキスト−尾崎信一郎(京都国立近代美術館主任研究官)
「館勝生の新作」
館勝生の絵画は常に一つの緊張の相の下にある。イメージはいつもその
極限において試されている。いうまでもなく緊張や極限といった感覚は
今日流行する絵画にとっては忌避されるべき特質であり、雑誌やカタロ
グをにぎわす安易なイメージの洪水の中にあって、館の絵画は孤立した
営みのように感じられよう。
今日、日本の絵画においてイメージは多くがその根拠を外部に負ってい
る。アニメーションを転用する作家たちはいうまでもなく、プライヴェ
ートな物語や空想を臆面もなく開陳する作家たちにとってイメージとは
自分たちに先行し、存在することが自明のなにものかであり、その編集
の巧拙が意識されることはあっても、その在り方自体は自覚されること
がない。ポスト・モダンの悪しき相対主義をアリバイとして既成のイメ
ージのリミックス、カットアップこそが創造である公言してはばからな
い者達の作品を前に私は既視感と徒労感しか感じることができない。こ
れらの画家たちは最初から絵画、イメージの本源について考えることを
放棄している。
80年代中盤、ニューペインティングの登場と時を同じくしてデビュー
した館が、当時華々しく活躍した「画家」達の無残な凋落の後も質の高
い絵画を描き続けている理由はひとえに館の探求がイメージの本源に直
結している点に求められよう。
かつて館は暗い背景の中にバイオモルフィックなほの白い形態を浮かび
上がらせて、一種のエピファニー(顕現)を連想させる独特の画面を構
築していた。これに対しこの数年続けられている試みにおいては、白く
地塗りされた画面の一部に叩きつけられたような青や紫の絵具が付着し
色調はネガからポジに反転したがごとき印象を与える。同時にかつて花
弁や昆虫との類比を許したイメージは即物化され、時に画面から大きく
せり出た絵具の塊はきわめて物質的な印象を与える。付着した絵具と飛
沫の跡を果たしてイメージと呼ぶことができるか。できるとすれば物質
はいかにしてイメージになるのか。館の近作の主題はかかるイメージと
物質の臨界点の探求であり、そこには明らかにミニマル・アートと共通
する、しかし逆向きの問題意識が認められる。イメージを限界に向かっ
て削ぎ落とす館の手つきは、手ごろなイメージを引用することで事足れ
りとする画家たちの 放縦の対極にある。
それでは館の新作において、物質はいかにしてイメージへと昇華するの
か。新作において絵具というメディウムからその表現性があたう限り剥
奪されている点に注目しなければならない。昨年の個展で発表された作
品においては同様の手法が用いられながらも、引き伸ばされた絵具が示
す方向が画面に一種の構図性を与えていた。しかし、もはや画面を構成
しようとする配慮は放棄され、絵具はかたちへと転じないし色彩にも転
じない。絵具はいかなる外部との類比も許さない。館の近作は類似性と
いうコードを禁じることによって絵画のもう一つのコードを探っている
ように思われる。それは因果性という原理だ。カンヴァスの上の絵具は
たとえなにものにも似ていないとしても画家の手によって置かれたとい
う理由によって一つの意味を獲得する。例えばヴィレム・デ・クーニン
グ、ロバート・ライマン、ソル・ルウィット。資質も表現も全く異なっ
たこれら三人の実践がいずれも優れた作品たりうる理由は筆触や色面を
とおしてうちたてられるこのような探求によっている。
因果律とは時間的な関係とみなすこともできよう。これまでも何度か私
は館の絵画を時間との関係において論じた。過去と未来のはざま、絶対
的な現在の中にとどめられるイメージ。初期の作品に実現されたほの白
い形象が、このようなイメージをなんらかの似姿として提示しようとす
る試みであったとするならば、極度に研ぎ澄まされ、もはやいかなる連
想も結ばない新作をイメージの顕現という事件を絶対的な現在の中にと
どめた一つの痕跡と呼ぶことはできないか。 |