□ 展覧会テキスト
−菅谷富夫(大阪市立近代美術館建設準備室主任学芸員)
「変わらぬ根拠」
小松純の作品を20年近く見てきている。もちろんすべてを見ているわ
けではないが、節目節目で主な作品は見てきたつもりである。
その上で言えることは、彼の制作者としての立ち位置が一貫して変わっ
ていないということである。
彼とはじめて出会った20年前、それは陶芸という手法自体の意味が問
われていた混沌とした時代であったと記憶している。つまり芸(美)術
家として、ある者は絵具を、またある者は写真、またある者は金属を使
うのと同じように、陶芸のプロセスを作品制作に使う作家たちが本格的
に登場してきた時期でもあった。そのなかで小松も伝統的な陶芸家のイ
メージからは最も遠い存在として、また陶芸のプロセスを駆使する作家
として登場してきたのであった。正確にいえば彼は陶芸家ではなかった
し、今でもそれは変わっていないと私は認識している。
たとえば現代の美術において写真を使う作家は数多くいるが彼らを写真
家と言わないように、陶芸のプロセスを使う作家をすべて陶芸家と呼ぶ
べきではないであろう。しかし陶芸の場合にはその歴史があまりに長く
偉大なものであるためか、いわば目的としての陶芸と手法としての陶芸
とが、いまだ未分化のままあつかわれているようである。手法としての
陶芸を選択した小松にとって、陶芸という制作プロセスは絵具や写真よ
りも親和性の高い手法であったという以上のことを意味しない。したが
ってその結果、制作された作品の形態もいわゆる陶芸のイメージからは
かけ離れたものなっている。
その彼の作品の形態を決定するものとして、ここではふたつの要素を指
摘しておく。ひとつは形を作る際、轆轤などの道具を使うのではなく小
さな土のかたまりを積み重ねるといった手法を取っていることが多いこ
とである。ある程度揃ったとはいえ小さくちぎられた土のかたまりは集
積されることで表面に変化を与えるとともに、出来上がる形にも制限を
与えているように思える。安定した形や複雑な形よりも、その反対に不
安な印象を与える形態を取りやすいのではないだろうか。彼の作品に先
のとがったものが多いのもこのような手法に一因があると思っている。
もうひとつは作品の主なモティーフがかれの生活の中から取られている
ということである。日々の暮らしの中で彼のアンテナにかかった、彼が
気にかかる植物や昆虫その他、形あるものからそれらは取られている。
これらはまさに小松の制作時の興味関心と感性がそのまま反映したもの
であり、おなじ陶芸のプロセスを踏んだとしても壺や茶碗といった既存の形態からの発想ではあり得ない形を生み出す契機になっている。
小松のこのような姿勢は20年の間、変わっていない。しかしその間に
土のコントロールに習熟し、かなり無理もこなせるようになってしまっ
た現在、小松には形態づくりへの根拠と自らのアンテナにさらなる磨き
をかけた作品づくりを期待している。 |