小松純は、土による表現の可能性を探ることを制作の基本理念としている。
なぜ土なのか、という問いが、ここで、当然の如く発せられるであろう。二十世紀初頭頃から純粋芸術の存在価値の中心が、表現自体ではなく、表現するための思考に求められるようなコペルニクス的転回が起こり、現代芸術と総称されるものが出てきた。そのような芸術を成立させる概念が誕生したその意味を、その芸術体系が生み出され繰り広げられてきた西洋から遠く離れた場所において考える糸口として、極東に位置するこの日本に於いて土という素材自体が芸術表現として歴史的な役割を果たしてきたという事実を認識することによって、作家は冒頭に掲げたようなテーゼを自ずから導き出し、土との対話を実践してきた、とここで措定する。
有史以前から、人類は土から様々なものを生み出してきた。その起源は明らかではないが、食料を煮炊きするといった生活用具として生み出されてきたような経緯もあったろう。というより、それは主従が逆かもしれない。食物に何らかの理由で火を入れる過程で、あるいはその残り火で、土を焼成するような状態が生じ、ある一定時間、土を高温の状態に置くことによって硬化する現象を見出し、土を成形し焼成することで何ものかをつくり出す方法を身につけていったのであろう。何れにしても、後に生み出されることとなる数多の土の造形に、美的な価値が付与されることになるのは、悠久の時を経て近世という時代を待たなければならなかった。特に、土の造形が近代的な意味で美的価値を有するものとして認識された最初期の例として、茶の湯に用いられる茶碗をあげることができるかもしれない。とはいえ、その事実があまりも当然のこととして理解されているために、その美が、つくり出されたものではなく、第一義的には、見出されたことによって成立した面もあることが、あまり認識されていないのではないだろうか。
茶を飲むという作法は、仏教などと共に中国から伝わったものであろう。室町の頃までは、茶の湯に用いられる茶碗は、中国から伝わった高価な道具が中心となり、それらの唐物によって華やかな茶の湯が将軍や大名によって開かれるようになったという。同時代、禅の精神を取り入れることによって虚飾を排除した侘び茶が生み出され、後に千利休によって近世の「アルテ・ポーヴェラ」とでも形容しうるような、簡素で禁欲的なスタイルの「茶道」が完成するのである。利休は、茶道具に唐物のような高価なものではなく和物の道具を用い、特に茶碗は朝鮮で雑器として用いられてた高麗茶碗(いわゆる井戸茶碗)を好く取り上げるのである。要するに、朝鮮の無名の陶工が日用品として量産していた雑器が、利休によって見出されることによって、「茶道」というミニマルなパフォーミング・アートに於いて重要な役割を果たすべく位置が与えられた訳である。
冒頭で、現代芸術が誕生した経緯として、芸術の存在価値が「表現するための思考に求められるようなった」と述べてきたが、利休が「茶道」という芸術ジャンルにおいて行った茶碗に対する見立ては、正にそのような「哲学」であったろう。利休は、一般的には価値のないものを選択するという行為によって、その「哲学」を実践する。それは、「侘び、寂び」という用語で一般化されてきた面もあるが、それだけではないだろう。利休は、また、和物の茶碗としては、ろくろのような道具を廃した、正に手から直に生み出された茶碗を見出す。その素朴で無骨とも言える形態は、利休の「哲学」が形象化したものであると同時に、それまでの陶器に対する見方を一変するものであった。
利休の芸術に対する姿勢は、近代的な見方をするならば、西洋で二十世紀初頭に到達した地点と等しいと思われるのだが、此の国の芸術は、そのようなある方向性を持った進化論的展開を遂げてきた訳ではなく、あるいは形式的な論理からなる芸術を分析した歴史も、西洋からそのような方法論が移入されるまで存在しないので、その比較は意味が無いと思われる。とはいえ、利休のその「哲学」は、此の国のこれからの芸術を考える時に、多くの示唆を与え得るリソースになると考えることもできるだろう。そして、このような地点に辿り着くことによって、ようやく小松純の作品を考えるためのフィールドが用意されるのである。
小松はいわゆる陶土を作品素材として用いているが、その素材を使用する意図は、先ず西洋の彫刻の系譜から離れることが容易になることにあったのだろう。また、土を手によって直に扱う手びねりという造形手法を用いているのは、技術を要するろくろのような手法とは異なり、伝統的な手業からも距離を置くことができるという選択が為されてきたのだと思われる。要するにその素材の使用は、ギリシャ彫刻を起点とした人間像に見られるような求心的で再現性の高い造形をつくり出すことは不向きであることが前提とされている。と同時に、陶土特有の味のある表情を、その伝統的な使用から解き放つことによって、その土自体の表現の可能性を導き出すことを可能としたのである。過去にも、陶土を彫刻の素材として用いるようなことは繰り返されてきたが、その土という素材の持っている表情が、彫刻という芸術が歴史的に背負ってきたものと齟齬を起こすような表現に陥ってしまったように感じている。おそらく小松は、そのような過去の事例も学んだ上で、自らの土による立体造形に、中空の構造という古くて新しい姿形を与え、陶土の風合いを活かす道を選んだのだろう。換言しよう。小松は陶土に付随する歴史的な構造を瓦解し、と同時に、陶土が培ってきた表現性を活かす道を探っているのである。
小松のそのような土を用いた表現に対する探求は、焼成しない土を用いた作品を数多試行してきた事実に於いても顕著であろう。しかしながら、それらの火を用いない土による作品は、その表現過程や表現手法、あるいは表現そのものを観察した時に、対他的な存在として想定できる西洋起源の彫刻作品、あるいはその線上にあると考えられるランド・アート等と峻別する基準が曖昧なものとなるのは避けられないだろう。そのような文化圏の軛を超えることが可能となる焼成していない土の作品は、小松自身が「泥画」と呼称している土を用いた描画である。そのような描法の起源を考えるならば、古くは旧石器時代からの作例が知られ、われわれの直接の祖先であるホモ・サピエンス種がまだ誕生していない時代からの表現であり、他文化圏との関係も並行関係を見ることができるだろう。但し、その場合、最初に措定した条件を考えるならば、此の国の文化の立脚点からも等しく離れるきらいがあるかもしれない。そのような寄り戻しもあり、現在の小松の表現は、焼成された土を立脚点としているのだろう。その個々の表現の細かな変化に関する考察は、また別の機会を持つ必要があるだろう。
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