作家、いや作家に限らずとも、その人が発した頭から離れないひと言があります。堤さんの場合、それは「凛として」という言葉でした。
昨年でしたか、焼き物の作家が集まったあるディスカッションで、従来の「陶芸」の概念をめぐってやや否定的な意見が交錯するなか、堤さんは「私は陶芸家。陶芸家として凛としてありたい」と言われたのです。
従来の「陶芸」にとらわれない革新的な発想で知られてきた堤さんの、陶芸家宣言もさることながら、作品の奔放で生命力にあふれ、明るく時にユーモア漂うあの感じと、「凛」という言葉のキリっと身が引き締まるような厳しく冷たいイメージとのギャップ。私にはまったく意外で、この言葉をどう理解すればよいのか、戸惑いを覚えたのでした。
しかし、ディスカッションのあと、この言葉を頭の中で反芻しているうちに、遅ればせながら、その意味にようやく気がつきました。「凛として」とは、キリっと身が引き締まるといった単なる態度を示すだけではない、一人の人間、一人の作家としてのアイデンティティに関わる深い言葉だったのだと。自分自身とは何かを問い、確固たるものとすることを意味していたのだと。
「凛として」あることと堤さんの作品の特徴は相反するものではなくて、「凛として」あるからこそのものだったのです。すなわち、自分というものが強く揺るぎなくあるからこそ、どこまでも自由に、革新的に、奔放になれる。従来の「陶芸」の約束事をどこまで破ろうとも、自分は陶芸家だと迷いなく言い切れる。そして、作品から見て取れる生命力や明るさ、ユーモア、それでいて上品な佇まいもまた、前向きに気高く生きる意志の表れであり、「凛として」あること、そのものなのでしょう。
作品に言葉はいらない、なぜなら作品自体が語っているからだとよく言われるのですが、言葉が造形的、外見的な側面からは伺い知れない作品の深部や本質を照らし出し、新しい意味、新しい理解へと導いてくれることもあります。
私はいい言葉を聞きました。
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