色からはじめよう。
岸本吉弘は、ここ十数年基調色として緑や青を使っている。これらの色とオーカー系の色で画面を作り上げる。大まかにいえば、この組み合わせは、古来山水や木々などを描くのに用いられてきたし、自然素材で染めた工芸品にもこの組み合わせがある。とはいえ、私はことさら古色を言い立てる気はない。ただ、彼が選択したのが時代の先端を象徴するような時流の色でないことを確認したいだけである。少なくとも、そこから作家の立ち位置を読み取ることができるのではないか。
蜜蝋を混ぜたコバルトグリーン主体の色は、青緑というべきで、たとえば、ヴィリジアンのように透明性のあるものではない。むしろ、視る者の視線を跳ね返し、多少厚めに塗れば、下塗りを被覆して膜としての面を形成しやすい。ストロークはオーカー系の色との境では明快でも、面の中ではメリハリが薄れる傾向にあるようだ。また、この色にはほどほどの明度がある。それに対し、オーカー系の色は黄色から茶色まで幅広く用いられており、その明度差は大きい。目を細めて画面を見れば、青緑は、作品によっては、あるいは部分によっては、オーカーよりも明るかったり暗かったりして、中間的なレベルなのが分かる。
つまり、私は、ここでたんに彼の使う青緑の特性を抽出したいのではなく、それによって規定される(むしろ、岸本が選択しているというべき)諸要素の関係に注目するのだ。そこから彼の周到な制作が窺われよう。
それは、なによりも、その色が形作るものに現れている。彼は、図と地が反転するストライプを部分に留めており、画面全体に広げて構造に還元させることはない。あるいは、ストライプとなんらかの形を組み合わせ、双方の中間体を作る。こうして、あたかも様々な項のあいだをぬうようにして、青緑とオーカーとの関係を作り上げる。形が突出せず、青緑の優位によって図と地の均衡が保たれている空間である。
下塗りの層の重なりや、オーカーにおける激しい身振りもこの色がある程度抑えている(青緑自体の中では、上で述べたように、身振りが強く現れない)。近年、彼の絵は身振りの激しさや即興性が増してきた。その場合、抑制そのものは失われるように思われるかもしれないが、かえってそれを強く感じることがある。二つの異なるベクトルのうちの一方が大きくなれば、その対立が増すのは当然だろう。激しさと抑制は共存するのである。
穏やかな安定ではない。様々な異質なものが顔を覗かす不穏さがある。エネルギーを放出しながら、あるところで均衡を保つのが岸本の絵画である。
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このテキストを書くに当たって、ここ数年岸本の絵画を見てきた印象を資料で補いつつ振り返ってみて、あらためて漸次展開していることが確認された。彼は、制作毎にあらたな課題に取り組んでいるようだ。
本展のひとつ前の個展では、縦に線を引いた大作を展示していた。在廊の作者から、縦に振り下ろすことの心理的な難しさと、それに挑戦した達成感について聞く機会があった。それまで横線を相殺するような縦線を引いたことはあったけれど、縦のみというのは初めてらしい。
私も、それに強い印象を受けたが、実は、縦であるとともに、あるいはそれ以上に、それが青緑を背景にしていたことに目を引いた。それまで黒い線は、主にオーカーを背景にして引かれたり、ストライプとして(一部あるいは全体で)構造の中に収まったりして、その線が突出することはほとんどなかったように思う。もちろん、今回の場合も、黒をいくらか青緑と馴染ませる処置を欠かしていないが、それでも、黒の突出は顕著だ。これまで、彼の絵画については、ある要素を前面化させず、画面空間全体を重視するといわれてきた。しかし、それが前面化しても、他の要素との関係によって画面全体でバランスをとることは可能だろう。おそらく困難な道だが、その挑戦を称えたい。部分のコントラストを高めることは、近年の身振りの激しさと画面の活性化という点では共通するかもしれない。とはいえ、それまでが要素同士の隣接的な関係を基本とするのに対し、部分の前面化においては、それと全体との関係性についてより配慮しなければならないのではないか。
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対象から自由であることで芸術の自由=創造を得ようとした抽象絵画は、その公式の誕生日からすでに一世紀を越え、その制作と言説の歴史によっていまやなかなか身動きが取れなくなってきた。無論、そもそもそうした初発の大きな自由自体が幻想だったとも考えられる。しかし、いずれにせよ、そうした歴史を無視することで得られる束の間の自由を岸本は望まない。むしろ、歴史の重荷を抱える中でしか生まれないことを理解している画家だといえよう。さらにいえば、歴史は、外の世界にあるだけでなく、画家においては当然、自身の身体の中に意識・無意識の両方において組み込まれており、自由は、その身体とともに歩みながら、その中から漸く掴み取ることができるものだろう。彼の実践に触れたときに、そのことを垣間見たような気がする。
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