■ コメント
有望な「なぜ」
前回の私の展覧会では「なぜ、とび出しているのか」との質問をされた方がいらっしゃいました。
それは私自身が「絵画というものは欺くの如くにとび出してないといけないのか。紙に水彩の場合はどうなるのか」と自問していた事柄でした。このたびは制作壁面と絵画表面をフラットにしました。やはり、このほうが絵画も悦んでいるように見えます。
「絵画はそれ自体で自足、完結しているものであるはず。なぜ、壁を巻き込むのか」との問いもあるでしょう。
理論的には拙論「固着する'04'06補訂」「個別化する'08」を参照して頂いて、ここでは心情的に率直に述べましょう。絵画という生きとし生けるものは壁から切り離されて存在することはできない(生命あるのもは他と無関係に存在するのは不可能です)。自足、完結というのは幻想です。文字通り、「これで、おしまい」という絵画があるとして、しかし、むしろ、「それが新たに違う絵画を創造させてくれるのだ」と考えられます。
マチスは「線や色彩で作られた創造物があるとして、もし、この創作が宗教的でないなら、それは存在していないことです」(画家のノート)
宗教的。宗教とは「信じる」こと。
アーシュラ・K・ル=グインは「ロシア人の不思議な点は、彼らが芸術を信じ、人の心を変革しうる芸術の力を信じることである。だからこそ彼らは検閲を行う」(夜の言葉 サンリオ文庫)と。
かつて、ビートルズが日本の権威・権力の保身のおじさん達を怯えさせたように、そう、人の心を変革しうる力を持つ絵画ならば、権威・権力者によって破棄される危険性がある。画家にとってはそれは屈辱そのもの(いや、それ以前に彼らにとってはチンプン・カンプン。まあ、それほどの絵を描くべきだが)。・・・・よって、壁に固着するのです。簡単に壁から取り外されないようにね。
生命の本質は変革。その生命だけが永遠。形式も内容も永遠ではない。挑戦を受ければ、変革という姿で応戦する生命。そのような生命を持った、生きとし、生けるものである絵画。どのように変革をさせれば絵は悦ぶであろうか。そうであるのに、「なぜ」、既にあった手法で描けるだろうか。ポロックのことばを借りれば、「現代という時代の目的を表現する」「つまり、時代時代でそれぞれにあった手法が開発される、ということです」(ユリイカ 青土社)。
私にとって重要なことは、「なぜ」と問いつつ、「それで? この絵が美術関係社に希望を与え得るのかな?」ということです。 |