有望な「なぜ」 II(succession)
2012.4 高橋徳雄
ミケランジェロがシスティナ礼拝堂の天井画を描く決意をしたのはなぜだろうか。-しかも法王は一度言ひ出したら決して後には引かぬ性質の人であり、極端に激しい性格の持主であるから、彼の逆鱗に觸れずには拒絶出来ないと悟ったブオナロチは、遂々意を決してフレスコの制作を承諾したのである。(ミケランジェロ傳 ジョルジーヨ・ヴァザーリ原著 石 進釋 寶雲舎刊 1943)-とはあるのだが。 マチスが病をおしてヴァンス礼拝堂に着手したのはなぜだろう。-「この礼拝堂ですが、これをやりたいと望んだのは私の方からではない。私はあれをやるよう仕向けられたわけです。あれは私に課せられたのです」。(画家のノート p328)-と言っているのだが・・・・。これはヒューマニスティックに言えば、私達は間違いなく誰もがこの世で何かを成し遂げんとして生まれて来たのであろう、これこれの仕事を成し遂げることを宿命づけられているのであろう。
さてさて、ある近しい美術家が亡くなられて1年と2ヵ月になる。だからというわけではないが、「遺産」「相続」ということばが気になってきた(実際はフィリップ・ロスの「父の遺産」1993を読む前後からだが)。勿論、絵画史の流れの中での話ではある。
通常どおりに「相続」という場合、相続するには相続する能力を自らが持ち合わせているか自問しなければならないし、相続するとすれば「創造し続ける戦う精神」を、でありましょう。
succession @連続、連続物 A相続、継承 B系列、系統 [生]〔ある地域の生物の〕自然更新;〔生物の〕発達系列(コンサイス英和辞典 三省堂)
ジャック・デリダはその著「マルクスの亡霊たち」において、「濾過し、選別し、差異化し、再構造化」する批判的相続を言っているようだが、私としては、[生]自然更新;発達系列を用いたい。なぜなら、よく使われる言い方「いのちをふき込む」というのはウソです。「もともと持っている」のです、という立場に立っているからです。
では、絵画はentertainmentでしょうか。
entertainment @もてなし、歓待、宴会 A娯楽、催しもの、余興 B心にいだくこと、受け入れること(同上)
マチスは「近代絵画はたしかに楽しみの芸術です。でも、それは宗教的もしくは精神的内容を持たないという意味ではけっしてありません」(画家のノート p317)と。私としてはentertainmentとはマチスのことばとともに、@おもてなし、ととりたい。
「おもてなし」としての絵画は、いいえ、でなくっても観者に満足を与えねばならないのは当然ですが、生理的な感覚での満足ではないのは確かです。かといって既に、いわゆる「おもてなしの心」でもないでしょう。他者(観者)がより深い、大きなあるものによって包み込まれた時に感じる満足・・・・。そのように意味を限定した場合においたときのみ、絵画はentertainmentだと言えるでしょう。またそうでなければ百年単位もの永きにわたって相続人(更新、変革、発達させんとする画家)を持ち得る絵画とはならないだろうと思われる。
冒頭にもどって考えれば、マチスの「課せられた」、あるいは「宿命づけられて生まれてくる」。これはより正確に言えば「宿命づけて生まれてくる」(生命論からも、作品に対する自由と責任という観点からも)のである。それでこそ、自分で、自分が、自分の相続人となって生まれてきた、そして、ここに存在する、と言えるのだろう。
更新せねば、変革させねばならない。
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