FLOWERS 杉田 一弥 × 来田 猛 展
FLOWERS - Sugita Kazuya × Koroda Takeru


2015.10.19-10.24
ギャラリー白3



器、花、写真 ― 三つの三角関係

杉田一弥展に寄せて

本展は、陶磁器のコレクターであり生け花作家でもある杉田一弥が、写真家の来田猛とともに制作した写真展である。二人の作家による所謂コラボレーション展であるが、通常のコラボレーションとは異なり、本展では片方が必ず二重の役割を帯びている。つまりこれは、A「{器と生け花}と写真」の展覧会であり、B「生け花と{写真と絵画}」のあいだで制作されたその作品群は、C「展示作品と{観客の遠近の視点}」のあいだで成立する。順に見ていこう。




Aにおいて二重化するのは杉田である。器が先で花が後、花が先で器が後、そのどちらでもなく、器と花は同時に1つの生け花となる。その生け花は、あるときは器に対する的確な批評となり、ユーモラスなコメントや応答でもあるが、またあるときには、花の表現が器を圧倒し、器の意味を変えてしまう。富本憲吉の器から湧き上がるゼンマイの群れは、あのバランスの取れたハイカラな陶芸家のなかに潜んでいた狂気じみた葛藤の的確な表現と言えよう。鯉江良二の水指に詰め込まれたケイトウは、この作家の天然の明るさをユーモラスに映し出し、カボチャとセッカヤナギによる奇妙なダンスは、河本五郎の器の絵に応答している。写真集『香玉』(青幻社2013年)を見ればわかるように、杉田にとって柳原睦夫は極めて相性の良い陶芸家だが、そのことは、柳原の器を用いた作品において花と器がバランス良く拮抗し、全体の中で一種の平衡点となっていることにも現れている。その平衡の彼方で、加藤委の器を覆い隠して涼しげに広がる黄グロリオーサとタニワタリや、前田昭博の器からまるでブライダルブーケのようにこぼれ落ちる色鮮やかなトウガラシでは、明らかに生け花の表現が器を圧倒しており、鯉江良二の器に盛られたアロエとバラは、この有名な「船」の器をシュールな女性器へと変化させているのである。

このような{器と生け花}を、杉田は専ら写真として表現する。そのためにつねに写真家を必要とするわけだが、これは意外なことではない。生け花は、その名称からして後に残らないものであるから、「作品」となるにはその最上の姿を定着した写真が必要である。勅使河原蒼風がどんな生け花を創ったかを知りたければ、写真を見るほかはない。生け花の鑑賞とは、つねにその写真の鑑賞でもあるのだ。両者の近さは、例えば、東京綜合写真専門学校の創始者であり70年代の写真批評を牽引した写真評論家、重森弘淹(著名な作庭家、重森三玲の二男)が、生け花批評から出発して写真批評の道へ進んだことにも現れている。

しかし、生け花と写真の近さは、生花が保たないという実際的な理由の他に、仏花や茶花として発展してきた生け花が、必ず正面性(仏間の正面、床の間)と決定的瞬間(一期一会)を備えていることにもよるだろう。生け花とは、特定の空間の中に設えられるものでありながら、必ず正面の視角から、見るべき時機に見るものであった。そういう生け花を写真にすることを求めて、杉田は来田猛を選んだのである。




Bにおいて来田猛は、生け花の二重性、すなわち空間のなかにありつつ(空間性)、正面から見るべき一幅の「絵」である(平面性)という特性に対して、「ピクチュア=写真/絵」の二重性で対応している。奥行きのないフラットな絵画を一方の極(例えば柳原睦夫の器にアジサイ、トクサ、ゴールドスティックで構成したコンポジション)、器と花がそこに置かれている現実の空間の写真をもう一方の極(例えば河本五郎の器にブラックリーフとドラセナが影を落としている作品)として、そのあいだで生け花の「ピクチュア」が繰り広げられるのだが、さらに今回、写真家は「現実の空間」をも一つの舞台に仕立てあげた。生け花は、描いたり染めたり擦ったりして作り上げた背景画を背に、まるでオペラ歌手か女優のように照明を浴びている(例えば熊倉順吉の器にぽつんと点火されたような赤グロリオーサ)。この演劇的な設定を、大判プリントとアクリルマウントの輝きが更に強調するだろう。

フラットな絵画と空間的な写真のあいだの移行は、一つの作品の内部でも生じる。例えば、床にかすかに影を落とした滝口和男の器(現実空間)から、花々が伸び上がるにつれて画面は奥行きを失い、百合の花はまるで白い背景に貼りついているように見える(フラットな絵画)というように。だがそれは、生け花をそのような両極(絵画性と演劇性)のあいだに閉じ込める結果になって、器や花の本当の現実性を捨象することになりはしないか。




否、だからこそ写真家は画像全体を4x5の大判フィルムカメラで撮影し、高解像度でデジタルスキャンした上で、その細部が潰れてしまわないようにあえて大きなサイズでプリントしているのである。すでに述べたように、アクリルマウントには作品を一つの舞台として完結させる効果がある。観客が通常の位置から作品全体を眺めれば、それは{器と花}を、{絵画と演劇}のあいだで表現した、舞台写真として立ち現れるだろう。しかしそれで終わりにはならない。最後にCにおいて、観客が作品を、全体と細部、二つの見方で鑑賞することが求められているからである。画面に接近して作品を見る人は、密集した花や葉の細かな縮れと繊細な色、器の表面の質感や輝きがそこにリアルに存在していることを発見するだろう。空間性とは異なるレベルで、現実感は細部に宿っている。観客はギャラリーを行き来しながら、遠くから、近くから、{器と花}の関係が写真に差し出され、その生け花が{写真と絵画}のあいだの舞台に立ち、{全体}として作品を輝かしく演じる様を見るとともに、その{細部}に瑞々しい現実を見出すのである。


単なる前衛生け花の発表会ではなく、単なる生け花の写真展でもない。三つの三角関係が組み合わさって出来る、器と花と写真の本展は、まさにコラボレーションの果実と呼ぶに相応しい。

清水 穣(写真評論家)



華人 杉田 一弥

1957

大阪生まれ

2013

青幻舎(京都)より活花作品集「香玉」を出版



写真家 来田 猛

1981

京都生まれ

2006

京都市立芸術大学美術学部構想設計卒業

2011

同大学大学院修士課程造形構想修了