FLOWERS 2017 杉田 一弥 × 来田 猛 展
Sugita Kazuya × Koroda Takeru


2017.10.2-10.7
ギャラリー白3



活け花の場所 — 杉田一弥「Flowers」鑑賞ガイドに代えて

清水 穣


 活け花とは、花という素材を用いた立体芸術である、活け花はそれ自体として鑑賞される芸術作品だ、と。あるいは活け花とは、花や器を用いた空間全体のデザインである、活け花はそれが置かれた空間全体の質を変化させる一種の建築なのだ、と。草月流を始め、活け花の美学はだいたいこの二つのバランスの上に成立するだろう。が、両者は共通の条件下に置かれている。生花の芸術として、その存在に時間的制限があるということである。言い換えれば、活け花のどの状態が作者の望んだ表現なのかが曖昧である。展覧会初日の瑞々しい状態か、1週間経って萎れてきた頃か。あるいは、前者から後者からまでの時の経過が主題なのか。
 こうして現代華道家には、実際の活け花とは別に、そのベストの状態を写し留めた写真による「作品集」を作る者が多い。そしてその写真は、華道家の美意識を正確に写し出すアーティスティックな写真でなければならないから、写真家の役割は本質的である。
 この考えを一歩進めて、活け花とは、活け花を撮した写真であり、ただし活け花やそのインスタレーションの記録写真ではなく、写真作品として鑑賞される活け花なのだ、と言おう。それが杉田一弥の花の出発点である。当然、そこでは写真家との密接な協働作業が欠かせない。前作品集『香玉』(木村羊一とのコラボ)の後、「Flowers」は新たに来田猛の協力を得て、写真作品としての独立性を高めたシリーズである1。念入りに背景が設えられ、ときに画像加工を施された写真からは記録性が完全に消去され、その結果「Flowers」は、写真作品と陶芸批評の二つの側面をもつ。
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 18世紀ドイツの美学者ヘルダーは著書『造形術』のなかで、視覚と触覚それぞれの特性を論じ、一目で物体の全体を把握する視覚に対して、触覚は物体から伝わってくるさまざまな感覚を探りながらいつまでも撫で回していて全体に到達することがない、その結果、触覚によって認識された対象は、視覚による認識よりも大きく感じられる、と述べている2。温度、重み、触感・・・ものの細部の手触りを、手はいつまでも感受し続けるが、そういう質感が目には閉ざされているかと言えば、そうでもない。暖色に寒色、重量感・重厚感、軽やかさ・透明感、肌理、つや、マット・・・等々、色調や質感を通じて、人間はいわば目で触ることが出来る。
 現代のデジタル技術による、人の通常の視覚を超えた高解像度映像は、このような視覚的触覚性の新たな表現だと言える。杉田一弥(+来田猛)の写真作品の大きな特徴は、記録性とは異なるリアリティ、デジタル技術が実現する古くて新しい触覚的リアリティが、味わえる点である。ただしヘルダーが述べたように、細部に詰まっている無限のリアリティをすべて(通常視覚で)見るためには、実物大よりも大きくしなければならない。アクリルマウント作品の大きさはここから導き出された。植物の表面の肌理、その無限の色調のすべて、釉薬の微妙な色の漂い、濁り、柔らかな質感、透明感が、生々しく目に「触れて」くるだろう。
 他方で、被写体となっている花の活け方自体には、年季の入ったコレクターでもある華道家の陶芸家に対する批評的意識が伺える。最も点数の多い柳原睦夫の器は、杉田のどのような活け花とも渡り合って、最も自由度の高い表現となっている。加藤委、川瀬忍、濱田庄司に対しては、ユーモラスな批評ないし突っ込みが面白い。例えば、濱田庄司、この民藝の巨匠のトレードマークとも言える「60年プラス15秒」の流し掛けの大皿は、あえて真横から(!)撮影され、直立するトクサはへし折られて、洋なしが添えられている。別作品では、その流し掛けの小瓶をカラフルな外来カボチャで囲み、実物よりかなり大きくプリントすることで、何とも言えない滑稽感を産みだしている。宋磁にインスパイアされた川瀬忍の青磁皿、しかし、やや過剰な輪花の装飾の僅かな通俗性が、その凛とした色調の完璧主義と小さな齟齬を来している。青磁の上でとぐろを巻く彼岸花は、その小さな齟齬を拡大しているのだろうか。
 残りの写真は、それぞれの陶芸家の器についての杉田流解釈である。例えば、浅野哲の美しい色釉モザイクの繊細な美に、杉田は、黄昏の光の中で色鮮やかに底光りする瑠璃アザミで応じている。呉須釉の美しい鯉江良二の白磁三足壺は、すっきりと気持ちよく整頓された造形だが、そこに、過ぎ去った疾風怒濤のようなニシキギと色気のあるジンジャーが添えられた。複雑な釉色と仮面のような貼花文を備えた器に、そのサイズを悠に超える高さで活けられた白梅の写真は、河井寛次郎に対する杉田のオマージュであろう。画面一杯の華やかな拡がりの凝集点として河井の器が力強い重心をなしている・・・・・・等々、こうした杉田の活け方をどう読み解くかが、観客に委ねられているのである。

1Ȁ そのコラボレーションがどのようなものであるかについては、前回個展のパンフレットに掲載した清水穣「器、花、写真 — 三つの三角関係」(2016)を参照されたい。

2Ȁ Johann Gottfried von Herder Plastik (1778) 532.



華人 杉田 一弥

1957

大阪生まれ

2013

青幻舎(京都)より活花作品集「香玉」を出版

2015

FLOWERS 杉田 一弥 × 来田 猛 展

 

(ギャラリー白/ギャラリー白3:大阪)

2017

FLOWERS 2017 杉田 一弥 × 来田 猛 展

 

(ギャラリー白/ギャラリー白3/ギャラリー白kuro:大阪)



写真家 来田 猛

1981

京都生まれ

2006

京都市立芸術大学美術学部構想設計卒業

2011

同大学大学院修士課程造形構想修了

2015

FLOWERS 杉田 一弥 × 来田 猛 展

 

(ギャラリー白/ギャラリー白3:大阪)

2017

FLOWERS 2017 杉田 一弥 × 来田 猛 展

 

(ギャラリー白/ギャラリー白3/ギャラリー白kuro:大阪)