柴田知佳子が昨年制作した《Silent Rock》を私は二つの場所で見た。最初は宝塚の廃墟となった旅館の浴室、二度目は梅田のオフィスビルの広い吹き抜け空間においてである。全く異なった環境で接しながらも、いずれの場においても作品が強い存在感を示していたことに私は感銘を受けた。この経験は彼女の作品の本質と深く関わっているだろう。モダニズム絵画の所在すべき場所として美術館のホワイトキューブが顕揚されて久しい。ホワイトキューブとは中性的な空間であり、場所性の否定である。それゆえ私たちはピカソやポロックの絵画をパリで、ニューヨークで、東京で等しく目にすることができる。しかし設置された場所と切り離して絵画を経験することは果たして可能であろうか。柴田はこの点に意識的である。彼女は次のように記している。「場の記憶や佇まいの体験に関心があります」「絵画の存在を空間をとおして感じていただければ嬉しく思います」彼女が《Silent Rock》を二つの場所で発表したことは、この作品がいずれの場においても場の記憶を刺激し、設置された空間を介して享受されることを暗示している。
場の記憶という言葉から連想されるのはバーネット・ニューマンであろう。ニューマンによれば絵画は「場の感覚」を与えなければならない。知られているとおり、ミニマル・アートの作家たちはこの言葉を字義どおり、現象学的に理解したが、柴田はむしろ場所に寄り添い、作品と場の調和を目指している。これまで柴田は美術館やギャラリーの無表情な空間ではなく、あえて癖のある空間に作品を設置してきた。今回会場となる空間もホワイトキューブならぬブラックボックス、壁面が黒く塗り込まれた閉じられた空間である。ギャラリーの空間を初めて見た瞬間、そこに自分の作品を展示したいという欲求を覚えたという画家の言葉は絵画の成り立ちと結びついている。そして逆説的であるが、場の記憶とは空間ではなく時間と結びつく。そもそも記憶という言葉が示唆するとおり、「場の感覚」とは一定の時間、一つの絵画と空間をともにするという奇跡に与えられた名であるからだ。
綿布の上に顔料を何層にも塗り込めてかたちづくられた柴田の絵画はそれ自体が時間を内包している。色彩を抑制し、ペインタリーな印象の強かった《Silent Rock》に対して、新作においては明暗の対比やストロークの痕跡が浮かび上がる。おそらくそれは暗く閉じられた空間に寄り添い、見る者に場の記憶を与えようとする作家の配慮からもたらされているだろう。巨大で横長のフォーマットは視覚ではなく身体をとおして感受される。黒い壁面を背景に立ち上がるイメージ、ある者はそこに曙光を見出し、ある者は迸る流れを見るかもしれない。このような体験、かけがえのない、繰り返すことができない感覚こそが柴田の絵画の本質であり、やはりニューマンによって「時間の意味ではなく、時間の身体的な感覚」とも名指しされた、絵画のみによって与えられる啓示なのである。
|