人と土との出会いは遠い過去のものである。ここでいう人とは学術名で言えばホモ・サピエンス、現生人類のことである。これまでの定説では、ホモ・サピエンスの進化は、コミュニケーション能力や狩猟の能力を持つことによって予期せぬ環境の変化に対応できる「文化」を持つに至ったことが大きかったと言われてきた。ホモ・サピエンスは3万年程前に絶滅したホモ・ネアンデルターレンシスと66万年程前に共通の祖先を持っていた。ネアンデルタール人が滅びて、我々の祖先であるホモ・サピンスが生き延びた決定的な理由は明らかではないのだが、一説には先に述べたコミュニケーション能力のような「文化」の差にあるとも言われてきた。
さて、それでは人と土との邂逅はいつ頃のことになるのだろうか。かつて土器はメソポタミアで生まれ、日本に伝播したのは4000年前ほどである言われていた。1960年代、その日本に於いて8000年前(放射性炭素年代測定による)と考えられる土器が発見された。現在では、この日本に於いて、世界で最も古い1万6500年前と測定できる土器が青森県の大平山元遺跡から見つかっている。縄文時代と旧石器時代を区分するのは縄文土器の存在であり、それが延びているのである。もっとも、大平山元遺跡で見つかった土器は無文であり、それが縄文のような意匠をいつから纏うようになったのかは、今はまだわからない。ただ、そのような「文化」が、ネアンデルタール人との何らかの闘争に打ち勝ち、生き残った我らの祖先であるホモ・サピンスが1万数千年という気の遠くなるような時をかけて、紡ぎ出したものなのであろう。
土を捏ねるという行為は、焼き物作りの基本中の基本である。その行為は、土の粘性を一定にすると共に土の中の気泡を取り除く重要なプロセスであり、それ無くして焼き物は成立しない。ところで、そのような作業は手がなければ当然行えない。人が他の動物と異なるのは、この手の使用によるところが大きいとも言われてきた。スタンリー・キューブリック監督のSF映画「2001年宇宙の旅」の冒頭部、我々の祖先とおぼしき2本足歩行の類人猿たちが争い、その手に取られた武器として用いられた骨が空中に放り出され、それが宇宙船に変わるシーンはとても印象的であった。おそらくはその有名な映像表現によって、キューブリック監督は、武器の使用が人類の知的進歩を促したことを象徴的に示したかったのだろう。しかしながら、そのような単純な武器の使用は、後に高度な「文明」を獲得したホモ・サピエンスとホモ・ネアンデルターレンシスのような他のホモ・サピエンス種とを隔てる有力な要因にはならなかったかもしれない。
ホモ属に属する二つの種の違いについて、イスラエル人歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリは『サピエンス全史』の中で、「虚構」を信じることができる能力を身に付けたことが大きな役割を果たしたという新しい説を掲げている。この「虚構」とは、現在に於いても重要な精神的基盤である聖書の天地創造の物語、あるいはこの世界を実質的に支配する有力な機構である近代国家の国民主義のような神話のようなものであり、それが我々の世界を成立させている基本構造となり、根源的なシステムを担うものになっていったのだろう。我々ホモ・サピエンスはそのような「神話」を元に一つの種として存在するという世界観を生み出し、この地球上では他に逆らう者のいないような位置にまで上り詰めて自らを「霊長類」と名乗ったのである。しかしながら、その「神話」作用は地球を支配した程度でとどまる筈もなく、われわれホモ・サピエンスは、同種の中の僅かな違いによって様々なグルーピングを行い、争いを重ね、悲惨な殺戮を無数に繰り返してきた。
ところで、ハラリは、ホモ・サピエンスが「虚構」という特殊な能力を身に付けたことを証明する一例として、およそ3 万2千年前の象牙彫りによる「ライオン人間」と称されている芸術作品(と認めることができる彫像)を提示している。その像は、宗教的意味を持つものであり、それは実際には存在しないものを想像する人類の心の能力を裏づけるものである。上記したように人が土の造形を始めた時期は、現在のところそこまで遡ることはできない。土の造形は、そのような神話作用に加担することも当然あったが、おそらくそれが生み出された最初期の実例は、人々の生活に根ざした器のようなものであったろう。そのような土の造形の特異な存在は、奇妙なもの言いに聞こえるかもしれないが、人類の「虚構」を凌駕するようなところに位置するのである。
小松純の土の造形は、まさにそのような「虚構」と、土という物質を介在させた原始的「リアリズム」とでも形容できるようなものと、両極ともいえる原理に基づく表現手法を併行して取り入れることによってその初期からつくり出されてきた。小松作品の表現にみられる表現様式の大きな振幅は、そのような土による造形の両義性に遠因があったのである。宗教の教義を表現する役割を担わされてきた絵画・彫刻のような、完全に「虚構」を表し出すために存在し続ける芸術領域とは異なり、土の造形は「虚構」から文字通りの「リアリズム」まで担う運命にあった。小松はそのような人類史的事実に対して自覚的だったのである。今回の新作も、その二つの領域を横断するダイナミックな表現が展示空間を鮮やかに描き出すだろう。最後に付言しよう。小松の新作に現れ出た人形(ひとがた)はホモ・サピエンスばかりとは限らないだろう。
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