憎悪の連鎖が地球全体を覆っている。戦禍は一部の地域のように映るがそれらを支える体制は二分(或いは三分)され、ハッキリと色分けできる。このような状況に対して美術のような領域が対応できる余地は殆ど無い。似たような無力感は、日本国内で近年頻発している自然災害に対しても同様だった。とは言え、その二者の違いは、前者は終焉を見出すことができないことにあるだろう。時差なく伝達される残虐な殺戮行為の情報は、平穏に暮らすわれわれの精神に対しても、見えない傷を負わせ続けている。
そのような傷ついた精神を抱きながらも、何ものかを生み出そうとする者は、自らの信念を拠り所として、日々格闘し、前進し続けるのだろう。そのように虚心坦懐に行為を続ける者たちこそ、作家と呼ぶべき存在なのである。ある著名作家が、次世代の作家たちに対して「自分自身でありなさい」と発言していたのを最近耳にした。冒頭に述べた、人類史に刻まれるような疵痕に対しても正面から受け止めることを促しているものだろう。過去に目を転じれば、第一次世界大戦という人類史上初の世界規模の戦争に対して、嫌悪感を表し既存の芸術を徹底的に否定した数名の若い芸術家たちによって「ダダ」という革命的な前衛芸術運動が1916年に誕生している。しかしながら、1924年にはダダからも影響受けたシュルレアリスムに吸収された。また、1936年ニューヨーク近代美術館で開催された「キュビスムと抽象芸術」展カタログに掲載された美術運動の系統図には、キュビスムから未来派へ、未来派からダダイズムへ、ダダイズムからシュルレアリズムへ、そして非-幾何学的抽象へと移行する所に落とし込まれた。要するに「ダダ」は、一つの美術動向として矮小化され、その前衛運動が生み出した破壊的な性質は、終焉してから僅か10年後には忘れ去られ、消費されたのである。前衛的傾向の美術動向が、前述したような脆弱な立場にあることは仕方がないことかもしれない。ボードレールがモダニズムについて語った言葉から援用して表すならば、前衛的美術動向は「一時的なもの、うつろい易いもの、偶発的なもので、…永遠なもの、不易なもの」(C.ボードレール「現代生活の画家」1863)を欠いた状態ということになるだろう。
このように美術というものの在り方に対して、考えを巡らせていた時に、霊長類学者の山極寿一が、地球規模で起こっている気候変動は人間が構築してきた社会システムが地球のシステムと合わなくなってきたものであると警告する文章に目が止まった(朝日新聞2023年9月14日[科学季評])。これまで自然科学的見地に立つ自然人類学(進化論に取組み、遺伝子解析により現在生存している人類が、ホモ・サピエンス一種類であることなどを解明)と人文学に属する文化社会人類学(進化論と距離を置き、社会を作る制度や構造に着目したが、「文化相対主義」の登場によって比較ができなくなり、各地域の民族誌の発行といった行為に矮小化した)とに分断されてきた傾向に対して、人間とは、分けることができない「生物社会的な存在」であり、その生の過程に沿って「科学によって伝えられる知識に、経験と想像力の溶け合った知恵を調和させることが人類学の仕事である」と説くイギリスの文化人類学者インゴルドの説を紹介し、その上で、自らの専門である霊長類学が、自然科学と人文学の間に居場所を見つけ、サルに社会と文化があることを明かしてきたことを述べている。さらに山極は、熱帯雨林を出た人類が共感と認知する能力を備え事物や現象の関係を読み解く力として機能したことを説明し、一つとして同じことが起こらない筈の自然界の現象を「同じような」現象として捉え、自分と関係づけながら未来の動きを読む力が、人類を未知の領域へと進出させたと説明する。しかしながら、その読む力をどこかで誤ってしまい、地球環境まで影響を与えるような存在になってしまったことを警告するのである。
「人間は自然や他の人間との関係を読む力をどこかで誤ってしまった。」その戒めは、山極が直接問題としている地球環境ばかりではなく、本文冒頭で取り上げた、国際的な地域紛争も当然視野に入れた発言だったろう。その難題を解く方策の一例として、再びインゴルドが指摘した内容を紹介していた。ここではその人類学者の文書を直接引こう。「人類学者は夢見る人でもある。観察から学び、物事の内側からそれを知るために皮膚の下に入り込む生の技法に従う者。間違いなく同じことをするのが、アートの役割である」(ティム・インゴルド『人類学とは何か』2016)と、人類学者の調査手法と美術作家が描写対象を観察する手法の近似性を指摘し、その美術作家の代表例としてパウル・クレーを取り上げ、クレーの言葉を引いている。「アートは見えるものを作り出すのではなく、見えるようにするのだ」(同上。但し引用文はパウル・クレー「創造についての信条告白」『造形思考』より)。インゴルドはアートも人類学も「あるがままのものを描いて分析することだけに結びついている必要などない。」と言う。人類学者のフィールドは実験室や設定された場所にあるのではなく、「他者にあるいは世界に問いかけ、その答えを待つことである。…そしてあらゆる会話がそうであるように、それは関わる人全ての生を変容させる」(同上)。インゴルドは、自然科学と社会学という二つの分野からの働きかけによって分断した人類学を一つの学問に戻すために、西洋近代が続けてきた実験し分析する方法を否定し、人類学が対象とする人と向き合うことによって双方が学ぶこととなるような関係性を築くことを提案している。
以上は、個展開催前に小松純と交わした会話の内容を元に、一つの文書としてまとめたものである。私が小松の作品と最初に出会ってから30年ほど経つであろうか。それは、陶芸という枠を崩そうとしながら葛藤していることを感じさせる作品だったと記憶している。それからしばらく後、名古屋での個展を見る機会があった。それは画廊内部の壁面及び大きなガラス面に土を用いてドローイングを施したインスタレーション作品で、今でもその作品と対面した時の胸のざわつきを思い出すことがある。京都国立近代美術館の1階の広間の壁にリチャード・ロングが個展の際に描いた(そして現存する)ウォール・ドローイング等を思い起こすかもしれないが、閉鎖された画廊空間に光を取り入れる役割を果たす大きなガラス面に施された小松の土のドローイングは、光を遮る土を用いたドローイングの隙間から溢れる光のシルエットとして浮かび上がる形象となり、見事に土の生理を照らし出すのである。小松純という作家が、土という素材と正面から向き合っている姿勢に、崇高なまでの真摯さを覚えたのである。
その土のドローイングとの邂逅を端緒に、小松の作品と対峙し続けてきた。そして何度か小松純の作品についての作品論を綴ってきた。最初に表した文章に、西洋美術の体系や日本陶芸の伝統から距離を置いて制作する姿勢を評した。そのこと自体に間違いがあった訳ではないが、文章の最後に「個々の表現に関する考察を行いたい」といった趣旨の表明をした点は、訂正しなければならないだろう。おそらく小松は、作品を作る度に新しい全体性を求めて、作家自身も含め、人々が未だ見たことのない世界を顕現することを希求しているのだろう。今回、日々修練を重ねるような所業を為す作家、小松と話すことによってその事を強く実感した。個々の作品の小さな変化に目を奪われる愚を犯すべきではないだろう。何故なら、小松の芸術に対する徹底して自由闊達な精神は新しい全体性を求めて胎動するものであり、それはインゴルトが説くような、人々の生の変容へと繋がることを予感させるからである。
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